2012年7月30日月曜日

1・1亀岡神社

1.平戸島(1)亀岡神社一の鳥居(平戸市岩の上町)
              
    
   額  「龜岡神社」
  笠木 3本継ぎ
  貫   3本継ぎ
  柱   3本継ぎ(右は折れて4本に見える)
  亀腹 柱と一体型になっているので、大きな石材を使用している。    
  
  松浦藩本家本元の鳥居ですから他のものに比べたら格段に大きくて、堂々としたものです。石も硬いものを使っています。文字は何か彫ってあるのは分かるけど、全く判読できません。鷹島の石工さんの話では固い石の表面は風化が進みやすいそうです。右柱は4本継に見えますが、倒れた時か倒した時に固い石の悲しさ脆さから折れたようです。

 扁額には「龜岡神社」と書いてあります。元は「霊椿神社」「乙宮神社」「七郎神社」「八幡神社」の4社が明治になって1社にまとめられたそうです。その時扁額を下ろして彫り直したか、台風で倒れたかした時に、柱は折れたのではないでしょうか。とここまで書いてから、平戸の松浦資料博物館の学芸員の久家孝史氏を別の用事もあったので訪ねました。「亀岡神社帳抜書」という墨書の綴りを見せてもらいました。コピーしてもらったので帰ってからじっくり読むことができました。よく書き留められているので、書き写します。

亀岡神社南口(元大手)一ノ鳥居額「龜岡神社」従五位松浦厚殿御筆。此鳥居宮の町、元七郎宮ニ建所也之の銘左の如シ

額「紹法七郎大権現」 大檀那松浦肥前守源隆信

            元和五年己未十一月吉日 佐川主馬

 この鳥居にまつわる事情が、はっきりわかりました。
①元和5年(1619)に平戸藩3代藩主隆信(宗陽)公が宮の町にあった旧七郎宮へ寄進した(現存では平戸で最も古い鳥居) 注1
②額には「紹法七郎大権現」と書かれていた
③鳥居の説明書きは、国老の佐川主馬が書いた 注2
④明治13年、4社をまとめたとき現在の亀岡に移す(他の文献)
⑤場所は平戸城の南口(元大手)、現在の大手の坂上手
⑥その時、額を「龜岡神社」と書き直す
⑦書いたのは従五位松浦厚殿 注3
となります。明治の初め頃ということは270年ぐらい経ていますが石の柱に書かれた文字が読めたのですね。
 嘉永元年(1848年)の平戸町家之図での七郎宮周辺図には現在の宮の町辺りにこの鳥居を含めて神社や町並みが描かれています。


注1 この鳥居は鎮信公が生まれる3年前に父親の隆信公が建立しました。

注2 佐川主馬は藩財政の立て直しに辣腕を振るった国老で、財政は立ち直ったけど、周りの評判は良くなかったそうです。

注3 松浦厚(あつし・鸞洲)公とは平戸最後の藩主詮(あきら・猶興館創設者)公の第1子。若君として育てられたとき、教育係として中倉万次郎(佐世保軽便鉄道創設者、衆議院副議長)がいました。厚公は貴族院議員、正二位伯爵までなられています。亀岡神社の額を揮毫されたとき従五位ということは若かったからでしょう。その頃のことではないでしょうか、世知原の中倉家には若様が泊まっていかれた部屋が今も残っています。
                                  世知原の中倉邸                        

           

 

2012年7月23日月曜日

鎮信鳥居について

鎮信鳥居(ちんしんとりい)について

 神社の鳥居は形式も、材質も多種多彩なものがあります。そのうち、肥前鳥居と呼ばれるものがあり、文字通り肥前の国にだけあります(筑前の国にわずかにありますが)。そのなかでも、江戸時代の松浦藩(平戸藩ともいう)内に造られたものが、佐賀藩のものに似てはいますがかなり違い、独特の形をしているので紹介します。こちらでは、これを鎮信鳥居と呼んでいます。

        (代表的な鎮信鳥居、総社神社・田平町)

 材質は石(石の種類は数種類ありますが)だけです。最上部の「笠木(かさぎ)」とその下の「貫(ぬき)」および両側の「柱」はそれぞれ3本の石材を継ぎ合わせています。当時は長い石材を使うのが困難だったのではないでしょうか。笠木と貫は3本継ぎばかりですが柱は2本のものや1本のものもあります。

 形は笠木の両端が細く反り返って、天に向かっていて、私は薙刀(なぎなた)型だと思っています。佐賀のものは極端に薄く作られていて、左右に尖っています。バナナ形をしているという人もいますが、私は船底型といった方がふさわしいと思います。柱は佐賀のものは下段のものが極端に太く出来ています。佐賀の肥前鳥居を素朴で力強いと表現する人もいますが、松浦藩のものは全体に均整が取れて美しい曲線を描いているといえます。

 名前の由来は第4代平戸藩主松浦鎮信(天詳)公が神社に寄進したことから言われたものだそうです。その後の藩主が寄進したものや地元の人が同じ型のものを寄進したものもあります。長崎県内では非常に少ないと言われて、数基しかないと表示した教育委員会もありますが、探してみたら週1のペースでは1年を越しそうにありました。ゆっくり紹介していきます。


 松浦鎮信(しげのぶ)公について
                 

 1622生れ1703没の江戸時代初期の大名、平戸藩四代目の藩主。天詳(てんしょう)公と呼ばれることも多い。今日、鎮信(ちんしん)流として知られる茶道の一派を立てた。ほかでは見られない様式の鳥居を神社に寄進したので、現在も旧平戸藩内の人は「鎮信(ちんしん)」鳥居と呼んでいます。平戸藩では、初代の殿様も鎮信(法印公)といいややこしいものがあります。
 平戸年表によると、○風害あり隣国より米三万俵を求め諸人の飢渇を救う ○旱害あり、米四万二千俵を出し諸人救う ○中野陶工を三川内にうつす ○大島捕鯨始る ○早岐新田に40戸建つ ○佐々新田普請 などなど領民救済、殖産事業、新田開拓と善政の様子が見られ、○幕府の巡国使来り善治を賞す ともあります。手前味噌は差し引いてもなかなかの名君だったようです。