額 「龜岡神社」
笠木 3本継ぎ
貫 3本継ぎ
柱 3本継ぎ(右は折れて4本に見える)
亀腹 柱と一体型になっているので、大きな石材を使用している。
松浦藩本家本元の鳥居ですから他のものに比べたら格段に大きくて、堂々としたものです。石も硬いものを使っています。文字は何か彫ってあるのは分かるけど、全く判読できません。鷹島の石工さんの話では固い石の表面は風化が進みやすいそうです。右柱は4本継に見えますが、倒れた時か倒した時に固い石の悲しさ脆さから折れたようです。
扁額には「龜岡神社」と書いてあります。元は「霊椿神社」「乙宮神社」「七郎神社」「八幡神社」の4社が明治になって1社にまとめられたそうです。その時扁額を下ろして彫り直したか、台風で倒れたかした時に、柱は折れたのではないでしょうか。とここまで書いてから、平戸の松浦資料博物館の学芸員の久家孝史氏を別の用事もあったので訪ねました。「亀岡神社帳抜書」という墨書の綴りを見せてもらいました。コピーしてもらったので帰ってからじっくり読むことができました。よく書き留められているので、書き写します。
『亀岡神社南口(元大手)一ノ鳥居額「龜岡神社」従五位松浦厚殿御筆。此鳥居宮の町、元七郎宮ニ建所也之の銘左の如シ
額「紹法七郎大権現」 大檀那松浦肥前守源隆信
元和五年己未十一月吉日 佐川主馬』
この鳥居にまつわる事情が、はっきりわかりました。
①元和5年(1619)に平戸藩3代藩主隆信(宗陽)公が宮の町にあった旧七郎宮へ寄進した(現存では平戸で最も古い鳥居) 注1
②額には「紹法七郎大権現」と書かれていた
③鳥居の説明書きは、国老の佐川主馬が書いた 注2
④明治13年、4社をまとめたとき現在の亀岡に移す(他の文献)
⑤場所は平戸城の南口(元大手)、現在の大手の坂上手
⑥その時、額を「龜岡神社」と書き直す
⑦書いたのは従五位松浦厚殿 注3
となります。明治の初め頃ということは270年ぐらい経ていますが石の柱に書かれた文字が読めたのですね。
嘉永元年(1848年)の平戸町家之図での七郎宮周辺図には現在の宮の町辺りにこの鳥居を含めて神社や町並みが描かれています。
注1 この鳥居は鎮信公が生まれる3年前に父親の隆信公が建立しました。
注2 佐川主馬は藩財政の立て直しに辣腕を振るった国老で、財政は立ち直ったけど、周りの評判は良くなかったそうです。
注3 松浦厚(あつし・鸞洲)公とは平戸最後の藩主詮(あきら・猶興館創設者)公の第1子。若君として育てられたとき、教育係として中倉万次郎(佐世保軽便鉄道創設者、衆議院副議長)がいました。厚公は貴族院議員、正二位伯爵までなられています。亀岡神社の額を揮毫されたとき従五位ということは若かったからでしょう。その頃のことではないでしょうか、世知原の中倉家には若様が泊まっていかれた部屋が今も残っています。
世知原の中倉邸
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