神社の鳥居は形式も、材質も多種多彩なものがあります。そのうち、肥前鳥居と呼ばれるものがあり、文字通り肥前の国にだけあります(筑前の国にわずかにありますが)。そのなかでも、江戸時代の松浦藩(平戸藩ともいう)内に造られたものが、佐賀藩のものに似てはいますがかなり違い、独特の形をしているので紹介します。こちらでは、これを鎮信鳥居と呼んでいます。
材質は石(石の種類は数種類ありますが)だけです。最上部の「笠木(かさぎ)」とその下の「貫(ぬき)」および両側の「柱」はそれぞれ3本の石材を継ぎ合わせています。当時は長い石材を使うのが困難だったのではないでしょうか。笠木と貫は3本継ぎばかりですが柱は2本のものや1本のものもあります。
形は笠木の両端が細く反り返って、天に向かっていて、私は薙刀(なぎなた)型だと思っています。佐賀のものは極端に薄く作られていて、左右に尖っています。バナナ形をしているという人もいますが、私は船底型といった方がふさわしいと思います。柱は佐賀のものは下段のものが極端に太く出来ています。佐賀の肥前鳥居を素朴で力強いと表現する人もいますが、松浦藩のものは全体に均整が取れて美しい曲線を描いているといえます。
名前の由来は第4代平戸藩主松浦鎮信(天詳)公が神社に寄進したことから言われたものだそうです。その後の藩主が寄進したものや地元の人が同じ型のものを寄進したものもあります。長崎県内では非常に少ないと言われて、数基しかないと表示した教育委員会もありますが、探してみたら週1のペースでは1年を越しそうにありました。ゆっくり紹介していきます。
松浦鎮信(しげのぶ)公について
1622生れ1703没の江戸時代初期の大名、平戸藩四代目の藩主。天詳(てんしょう)公と呼ばれることも多い。今日、鎮信(ちんしん)流として知られる茶道の一派を立てた。ほかでは見られない様式の鳥居を神社に寄進したので、現在も旧平戸藩内の人は「鎮信(ちんしん)」鳥居と呼んでいます。平戸藩では、初代の殿様も鎮信(法印公)といいややこしいものがあります。
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