2012年8月27日月曜日

1・5高薗(こうそね)神社

1.平戸島(5)高薗神社(平戸市木引町)
    額     「高薗大明神」
    笠木・貫 ともに3本継ぎ、柱は2本継ぎ」
    建立年  安永五年(1776)

 文字は違っても発音は同じ「神曽根(こうそね)」ダムのすぐ近くにあります。海岸線に近いところ、海抜0メートル地帯でここまで海水がきています。

 右の柱に安永五年と読めます。この時代は甲子夜話を書いたことで有名な、平戸藩9代藩主清(静山)公の代に当たりますが、殿様がかりではなく「奉寄進 氏子中」とあります。いまは寂しそうな農村風景ですが、鳥居を建立したころは魚や鯨などもとれて浜は賑わっていたのではないでしょうか。

 最近新しく建てられた、拝殿内には昭和15年に中国に攻め入った日本軍の様子を書いた絵馬が掲げられています。それにしても、海岸近くで北風も強いところでしょう、鳥居の注連縄が垂れ下がっているのが痛々しく感じました。






2012年8月20日月曜日

1・4皇大神社

1.平戸島(4)皇大神社(平戸市中野大久保町)
   額   「皇大神社」
   笠木  3本継ぎ
   貫    真ん中が極端に短い変則3本継ぎ
   柱    2本継ぎ、亀腹あり

 この鳥居は偶然に見つけました。平戸市史に記載されていた稲荷神社の写真を撮ったあと、来週公開する高薗神社に向かう時、昔の旧道を行ってみようと、狭い道を通っていたら右手に見えました。全く予備知識もなく見つけ出した鎮信鳥居は今もってこれだけです。それにしても前回の稲荷神社とは近い距離でこんなところにあるとは思いませんでした。近くても、昔の村は別の村だからこんなこともあるのだと納得しました。
 この神社は七宮様とか七宮大明神と言われています。天照大神などの7つもの神様を合祀されているからでしょう。
この神社の内部には、写真のような絵馬や写真が所狭しと掲げられています。幕もカラフルなものがたくさん張られて、にぎやかさを感じさせられました。
 鳥居の建設年代は柱に文字は何か彫ってはあるのですが、残念ながら読み取ることはできませんでした。



2012年8月13日月曜日

1・3稲荷神社

1.平戸島(3)稲荷神社(平戸市川内町)
 
   額   「稲荷宮」
   笠木  3本継ぎ
   貫   1本(新しい石材で修復が行われています)
   柱   2本継ぎ、亀腹なし
   
 国道沿いのガソリンスタンドの前にあります。稲荷神社とあるので、てっきり農業者の神社と思っていたら、ここの場合は漁業者のための神社だそうです。
        
 逆光線だったので裏側から撮った写真が、鎮信鳥居の形をよく表しているのであえて追加します。裏から見た写真でよくわかりますが、貫の部分が、1本もので出来ています。建てられた年代は不明ですが、300年以上は経過していると思われますので、その間に3本継の貫は破損して補修されたものと思われます。笠木は3本継ぎの典型的なものですが、柱はやや小ぶりのせいか2本継ぎになっています。
 この町は「川内かまぼこ」の産地として有名なところです。平戸の町から15分ぐらい車で走ったら、左側にこんな看板が見えたらまもなく川内の町並に入ります。

 いつごろこの看板が建てられたのかは知りませんが、かなり前からあります。10本で1000円はずっと変わりません。値上げしたら書き直さなければなりませんね。
 稲荷神社を過ぎたら、かまぼこ屋さんが軒を連ねています。
  駐車場は見かけませんが、それぞれ店の前に車を止めて買い物をしています。地方発送もしてくれます。




2012年8月6日月曜日

1・2天満宮

1.平戸島(2)天満宮(平戸市木引田町)

 
   額   「天満宮」
   笠木  3本継ぎ
   貫   3本継ぎ
   柱   2本継ぎ(亀腹あり) 
 平戸市の中心街、木引田町(きひきだちょう)の少し高段にあります。何故かここに行くのには、有料駐車場の通路を通っていくのが一般的のようです。横にあまり目立たないけど、狭い階段を上っていくこともできます。
 町人の街の中心街というのは昔も今も変わらないのではないでしょうか。鳥居の建立年は元禄5年(1692年)とはっきり読み取れましたが、寄進者の名前は数人書かれていますが、判読できませんでした。この年代は、鎮信公の次の代、棟(たかし)公の時代です。殿様の名前一人だけが彫られているときは大きく深く彫ってあるので300年経っても、よくわかりますが、何人もの人の名前を羅列して、小さな文字を彫ってある時は、風化が進んで読み取れなくなるのが早いようです。
 このお宮は街の真ん中にあるので、参拝者も多く、石畳の道や石の階段は使い込まれて、丸みを帯びて風格が出ていました。 
 この神社の正式名称は「天満神社」だそうですが、平戸の町の人たちは普通「天満宮」と呼んでいるのでそのように表記しました。住所に関しても、神社庁のものでは鏡川町となっていますが、この場所を教えてくれた人から「木引田」の天満宮と教えてもらったのでそのようにあえてしました。
 その後、調べていたら寛政4年(1792年)平戸六町図の中で「天神町」という町の名前になっていました。また嘉永元年(1848年)の平戸町家の図にも天神町とあります。天神さまを祭っていたので天神町になったのか、天神町にちなんで天神さまを祭ったのかどちらでしょうか。これらの絵図面には各家それぞれの名前も記入されています。寛政の分には職業まで書かれています。寛政4年は30戸、嘉永には26戸、空き家や空き地も目立っています。したがって、明治以降にあまりに小さい町内とのことで合併になったのでしょう。今では天神町の名前は平戸にはありません。
 
 神社名は明治になってから「神社」に統一されて○○宮とか○○大明神とかの名称は正式には使われなくなったようです。