2012年9月24日月曜日

1・9白山比咩神社

1.平戸島(9)白山比咩神社(平戸市主師町)

 
     
     建立   天保11年(1840)
     
     笠木   3本継ぎ
     貫     3本継ぎ
     額     解読不能(熈公の書とのこと)

 この鳥居を見つけ出すのは非常に難しいことです。前回、前々回の鎮信鳥居の場所を案内していただいたのは、小佐々の郷土史家、吉永等さんです。平戸史誌にもなく、私が見付けきらずにいたところを、10年ほど前から県北一帯を隅々まで回ってこの独特の形の鳥居を探しておられたのです。おかげで新たに5基の鎮信鳥居を見つけ出すことができました。他の鳥居は現場まで案内してもらえましたが、ここだけは入り口のところで車を止めて、ここからは歩いて行かねばならない、30分ぐらいかかるのでまたの日に一人で行きなさい、一本道だからすぐ分かるよと言われました。ご高齢で持病もあられるので止むを得ないことで後日一人で行きました。
 この鳥居のある神社は、平戸島の最高峰「安満岳(530m)」の頂上付近にあります。現在では、舗装道路が近くまで延び、駐車場もできています。ここからなだらかな道を歩けば楽に「白山比咩神社」に行けます。しかし、この楽な道は裏参道に当たるそうです。
 この鳥居のあるところに車を止めて上りました。この参道が表参道と言うことですが、現在は上まで上る人はいないと思われます。この鳥居は昭和19年に生月の網元が奉納したと記されています(鎮信鳥居ではなく明神鳥居です)。そして、注連縄も張られています。冒頭の写真をもう一度見てください。注連縄の跡がありません。そのはずです、確かにここへの道は一本道ですが、途中山水に流されて道が途絶えたところもあり、苦労して上らなければなりません。この熈公が奉納した鳥居は現在はまったく無視されています。
 この鳥居よく見たら、非常に緻密に削られている様子が分かります。200年ほど昔のものですが3本継ぎの所などは角がきっちりしていて、電動工具を使ったもののように見えました。笠木のそりあがりも今まで見たものより丸みを帯びています。これを作った石工は昔のものとは違うものにしたかったのではないでしょうか。

   この鳥居があるところ主師(しゅうし)町一帯はカトリック教徒が多いところです。江戸時代の禁教令により表面的には仏教徒ばかりになっていたのですが、明治維新になりカトリックの信者が表に出てきました。昨年の夏、棚田学会の集会がこの付近で行われたときに参加してこの辺り一帯の事情を知ることができました。平戸の城下を離れた島の裏側に当たるこの付近の住民に仏教徒もいますが、多くがカトリックだそうです。町内会の組織でも宗教の代表者が町内会長の上に位置しているとのことでした。そして江戸時代もずっと変わらなかったそうです。平戸藩もそのことは知っていて特別取り合わなかったのが実情らしいようです。中には鯨漁が盛んだった頃には、数千人規模の鯨組みがありその漁師はほとんどカトリックだったと言う人もいます。藩財政に大きく貢献していた鯨ですから、藩も見て見ぬふりをしていたとのことです。

 この鳥居のすぐ近くの集落にきれいに整備された「山野カトリック教会」があります。鳥居の参道が荒れ果てているのに、教会は信徒の手で立派に維持されています。そこには住民の確かな営みが見えます。それに比べ、神社の廃れようは一部の街中を除き地方に行くほどひどいものです。これは、太平洋戦争の旗振りをして敗戦へと進んだ神社への反動も感じられます。



2012年9月17日月曜日

1・8梅ケ谷津偕楽園

1.平戸島(8)偕楽園のお稲荷さん

 鳥居は神社にあるものですが、ここのは庭園内に造られた「おいなりさん」の鳥居です。生月の鯨組「益富組」が建造し、寄進したそうです。小さくて可愛らしいものです。
    笠木   3本継ぎ(中央部が極端に短い)
    貫・柱   共に1本もの
    額     額の文字は平戸藩10代の藩主、熈(ひろむ・観中)公の書によるそうですが判読できません。

 この庭園は熈公のとき豪商の近藤慶吉と言う人がかつて棟(雄香)公の「開林舎」と言う茶室があったところに庭園と別邸につくり、殿様に献上したそうです。明治維新後にはこの庭園・別邸は子孫の梅谷家へ返されています。
 場所は平戸瀬戸を見下ろす小高いところで、海岸の白い砂浜も見え瀬戸の海を池とする庭園のつくりのようです。現在では赤い吊り橋の平戸大橋もよく見えます。

 正式名称は梅ケ谷津偕楽園(うめがやつ・かいらくえん)と言いますが、通称は「偕楽園」です。偕楽園と言えば水戸のものは全国的に有名。調べてみました。水戸は天保13年(1842年)、平戸は文政13年(1830年)。12年も早く平戸の偕楽園は出来上がっています。偕楽園の意味は「領内の民と偕(とも)に楽しむ」と言うことをどちらの庭園にも説明がつけられています。まったく同じネーミングになったのはなぜでしょうか。偶然の一致と片付けられそうにありません。観中熈公の父、静山清公は水戸公とは仲のよい間柄でした。どちらかが承知の上で名前を譲り受けたと考えるのが自然ではないでしょうか。



 
 

2012年9月10日月曜日

1・7比咩(ヒメ)神社

1.平戸島(7)比咩神社(平戸市大野町)
  笠木   3本継ぎ
  貫     3本継ぎ
  柱     2本継ぎ
 平戸市の中心街から少し南下した山の中にある神社です。周りは大きな木が文字通り林立しています。鳥居から本殿にかけてきちんと清掃がなされていました。大木の切り株もたくさんあり、これらが茂っていたときはご神木と崇められていたのではないでしょうか。

 額束には比咩神社と書かれていますが、ヒメと読むとは思いませんでした。

2012年9月3日月曜日

1・6金立(かなだて)神社

1.平戸島(6)金立神社(平戸市前津吉町)

     額   「妙見社」
     笠木  3本継ぎ
     貫    3本継ぎ、柱の両側は折れてなくなっている
 明るい日差しの強い日に訪れたので、海岸線に近いこの神社は南国ムードに溢れていました。道路一つ隔てて海岸ですから、内海側といえども強風にさらされることが多いと見えて、あちこち石材に痛みが出ています。柱石の風化もひどく、文字は読むことができません。しかし、平戸史によると寛文元年(1661)建立ということですから、鎮信公が寄進したものと思われます。350年以上前のものということになります。その間には、ものすごい台風に見舞われたことは何十回もあったことでしょう。
  それにもかかわらず、鳥居から社殿の周りにかけて槙の木などの巨木が鬱蒼と茂っています。ナタオレノキというのもあるそうですが、ナタが折れるほど硬い木というのでしょう。錆びた錨も境内に置いてあります。海難事故が昔あったのではないでしょうか。

 境内の芝生の中に大木が倒れています。それにはびっしりと着生ランのセッコクが付いていました。いまどき、山に探しに行ってもめったにお目にかかれず、見付けても高い木のてっぺんあたりにあるので手も足も出ません。今度は花のころ来たいものです。

 平戸島の南部、前津吉(まえつよし)に佐世保から行くには平戸大橋を渡って車で行けば、2時間ばかりかかりますが、相浦港から船で行けば30分で行けました。南九十九島の中を、養殖いかだの付近はゆっくり進みますが、外海に出ればあっという間でした。しかし、乗客はもう一人地元のおばあさんが乗っていただけでした。昔のは木造船の「津吉丸」と言っていましたが、今では高速船の「コバルト21」となっています。佐世保港からでは45分です。
 相浦港の対岸の煙突は九州電力の相浦火力発電所です。原子力発電所が止まって最近はフル運転が続いています。