笠木 3本継ぎ(中央部が極端に短い)
貫・柱 共に1本もの
額 額の文字は平戸藩10代の藩主、熈(ひろむ・観中)公の書によるそうですが判読できません。
この庭園は熈公のとき豪商の近藤慶吉と言う人がかつて棟(雄香)公の「開林舎」と言う茶室があったところに庭園と別邸につくり、殿様に献上したそうです。明治維新後にはこの庭園・別邸は子孫の梅谷家へ返されています。
場所は平戸瀬戸を見下ろす小高いところで、海岸の白い砂浜も見え瀬戸の海を池とする庭園のつくりのようです。現在では赤い吊り橋の平戸大橋もよく見えます。
正式名称は梅ケ谷津偕楽園(うめがやつ・かいらくえん)と言いますが、通称は「偕楽園」です。偕楽園と言えば水戸のものは全国的に有名。調べてみました。水戸は天保13年(1842年)、平戸は文政13年(1830年)。12年も早く平戸の偕楽園は出来上がっています。偕楽園の意味は「領内の民と偕(とも)に楽しむ」と言うことをどちらの庭園にも説明がつけられています。まったく同じネーミングになったのはなぜでしょうか。偶然の一致と片付けられそうにありません。観中熈公の父、静山清公は水戸公とは仲のよい間柄でした。どちらかが承知の上で名前を譲り受けたと考えるのが自然ではないでしょうか。
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