この島の鳥居については野本政宏氏の「壱岐国・江戸期の石造鳥居」という冊子、平成11年、郷ノ浦町立壱岐郷土館発行のものを参考にさせてもらいました。この中で野本氏は鎮信鳥居33基、明神鳥居16基、合計49基をあげられています。私が見た範囲では、明治以降のものも含めて鎮信鳥居だけを紹介していきます。
壱岐の神社の歴史は古く、平安時代中期、延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳(延喜式内社単に式内社ともいう)には24社が記載されています。対馬は27社。肥前の国では4社のみです。長崎県内では平戸の志々岐神社1社のみで、佐賀県内に3社あります。ということは、壱岐・対馬を除く長崎県内では、収穫を祝いお祭りをするなどという余裕がその当時はなかったのでしょう。平安時代の長崎や佐世保などは住民は生活していたでしょうが、細々と暮らしていたのではないでしょうか。
戦国時代の末期に壱岐は平戸松浦家の領地となっています。江戸時代の平戸藩は6万3千7百石となっていますが、その内壱岐島内の分は1万7千7百石余ですから、大きな米づるということになります。農業先進地でもあったようで、江戸時代に松浦郡内の新田が開発されたときなど、壱岐の農民がかなり移住してきている記録もありますし、自分の先祖は壱岐から来たとの話も聞きます。
そんな事を考えると、秋祭りに際しては、木製の鳥居が古くなって、建て替えるときには殿さまが石の立派なものを寄進したのではないでしょうか。鎮信公が寄進したものが古く数も最も多く、その後の藩主も続いています。一般的に言えるのは、江戸初期のものは鎮信鳥居が多く、江戸後期以降は明神鳥居が多くなっています。やはり流行というものでしょうか。
7.1.1天満宮(壱岐市石田町石田西触)
笠木 3本継ぎ(右だけ古い)
貫 1本(新しく造りかえられている)
柱 2本継ぎ
額 天満宮
建立 寛永元年(1624年)
この鳥居の寄進者は鎮信公の父親、隆信・宗陽公ですから現存する鎮信型の鳥居では最も古いのではないでしょうか。建立の年は鎮信鳥居の建立された年で、神社の創建はずっと前になりますが以後のものもそうなります。壱岐としては高台にある神社なので、風当たりもひどく、何度も倒されて改修されたのではないでしょうか。
この神社には他の神社で、狛犬が置かれているところに牛の石像が置かれています。昔から農業に牛は欠かせない存在だったのでしょう。
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