2012年11月26日月曜日

4・3三柱(みはしら)神社

4.北松浦郡(3)三柱神社(佐々町里免)
        額       三柱神社
        笠木     3本継ぎ
        貫      3本継ぎ
        柱      3本継ぎ
   この神社は佐々町の中心地、里町内にあります。創建は古く平安時代の貞元二年(977年)に古川岳連山の三尊岳の頂上に神殿を設けたと言われています。その後、佐々川のほとりの古川に移り、さらに佐々駅の近く(宮地と言われているところで、鉄道官舎があった場所)を経て現在地へ文化二年(1805)遷座されたそうです。
 この鳥居は三柱神社の二の鳥居と呼ばれ、国道から少し入った所にあります。昔の平戸街道に面した所にあります。建立は貞享五年(1688年・元禄元年)宮地で、文化二年に現在地へ移されたそうです。建立の時、平戸藩主は4代目の鎮信公の年代ですが、鳥居の柱には鎮信公の名前は刻まれていませんので、氏子によるものと思われます。全ての石材が3本継ぎで作られ、笠木の反り具合も美しく均整がとれ旧平戸領内の鎮信鳥居の中でも最も美しいものの一つと思われます。

  三柱神社の本殿天井には81枚の絵馬があります。説明では旧平戸藩士山本紋蔵・紋之助兄弟と酒屋の内山巨州の3人が心血を傾けて描き、明治10年に完成したとのことです。今ではやや色あせた感はしますが、立派に残っています。この本殿は昭和41年に新築されたので天井の中央部分だけですが、旧本殿では天井全面を覆っていたそうです。
  佐々町では、旧軍の「肉弾三勇士」が戦時中は教科書にも掲載され有名になっていた三勇士の一人「北川亟(すすむ)伍長」は佐々町の人です。その銅像も境内にあります。
  この神社の創建が977年ですから、1977年には1000年になるので、その記念碑はないかと探しましたが見つかりません。宮司さんに聞いたら何もないそうです。もっとも、950年を記念して建てられた鳥居は本殿のすぐそばにあります。



2012年11月19日月曜日

4・2若宮神社

4.北松浦郡(2)若宮神社(江迎町田の元)
         額      若宮神社     
        笠木    1本
        貫      1本
        柱      1本
   写真を見て頭でっかち(笠木が大きい)の感は否めません。そして、笠木、貫、柱ともに1本の石材で出来ています。最初に見た時、肥前鳥居とは思ったけど何か違和感がありました。柱には大正3年建立と彫られています。これでは鎮信鳥居と呼べないのではなかろうかと思ったりしましたが、すぐ横に古い鳥居の残骸が置かれています。
そして、元禄年間の表示があります。確かに古いものは鎮信鳥居の姿かたちに同じものです。大正になって作られた時、頭でっかちになったのでしょう。昔のものを参考にして復元しようとしたのですからこれも鎮信鳥居の範ちゅうに入れる事にします。
  この土地は、江戸時代には志佐筋の福井村でした。戦国時代には志佐氏の領分で、福井の直谷城主が取り仕切っていた所でした。明治になって田平筋の吉田村と合併して吉井村となりその後町となり、現在は佐世保市に併合されています。
  戦後はここに住友潜竜炭坑が開設され大勢の人が全国から集まり大変な賑いを見せていました。小学校6年の時、すぐ近くに住んでいたので、はっきりと脳裡に残っています。朝市の賑い、真昼間からビンゴ屋の喧騒、映画館はいつも満員の盛況でした。そんなときに、この若宮神社の秋のお祭り(おくんちだったのでしょう)の素人演芸会を見たのを思い出します。境内に作られた舞台の上で歌あり芝居ありの熱演が続き、とても素人のものとは思えず、大勢の観客もやんやの喝さいを送っていました。
  それも、炭坑の閉鎖と共に火が消えたようにさびしくなり、全国に散らばって行きました。高校時代にはここから来ていたものが20~30人ぐらいはいたはずですが、現在ではだれ一人残っていません。



  

2012年11月12日月曜日

4・1藤護(とうご)神社

4.北松浦郡(1)藤護神社(鹿町町深江)
                     額     嶋護大明神
        笠木    3本継ぎ
        貫     1本
        柱     2本継ぎ
  鳥居の足元に写真のような説明文が掲げられています。「鎮信鳥居」と明示されているところは他では見ることはありませんでした。鹿町町の教育委員会が作ったこの説明文では、1528年に鎮信公が創設したように書かれていますが、100年以上も違っています。
  この説明文では、文政4年(1821)に松の大木が暴風雨のため引っかかり、破損したのを修復して現在に至るとありますが、最初の写真で分かるように貫の部分が1本の石材で出来ています。この鳥居を修復したという石工さんの話を聞きましたが、この説明文の掲げられた後になってからの事かも知れません。文政年間の鳥居で貫を1本の石材で作られたものはないようです。
  鳥居を背後から撮った写真です。笠木の反り具合が美しく見えます。この神社は、城主が滅んだ深江城跡に建てられたと言われています。
 
  






2012年11月5日月曜日

3・3今福神社

3.松浦市(3)今福神社(松浦市今福町東免)
 
        額     今福神社
        笠木    3本継ぎ
        貫     3本継ぎ
        柱     3本継ぎ
 鳥居建立は寛文十年(1670年)ということは、前回、前々回の大岳、熊野神社と全く同じ年に建てられています。松浦市内にはこの3基しか鎮信鳥居はありませんが、偶然の一致ということでしょうか。前の2基は鎮信公が寄進したものですが、今福はこの辺りを支配していた、宗家松浦の20代目に当たる、信貞公が寄進しています。柱に「松浦猪右衛門 源信貞武運長久」と刻まれてあるのがはっきり読めます。諱(いみな)は猪右衛門です。この人と鎮信公とは従弟になります。鎮信公の父親、隆信(宗陽)公の妹の子で相浦・松浦家の養子となっています。記録によると、今福村を1500石分知していますが、江戸は武州葛飾郡に住み幕府の旗本となっていて、一族は明治まで江戸在住をしています。
  この鳥居を見ると、平戸藩の鎮信鳥居の中では佐賀藩のものに似ているように思われます。特に笠木の反りが少なく平べったい感じを受けます。全体に大きさもかなり大きく感じます。柱は他の鎮信鳥居と比べたら、かなり太くなっています。石工が違う地方のものが作ったのではないでしょうか。
 
 今福は松浦家の発祥の地と言われているので、近くには最初の城、梶谷城もあり堤防建設に当たっては人柱の話も語り継がれています。