2013年1月28日月曜日

7.2.2比売(ひめ)神社

7.2.2比売(ひめ)神社(郷ノ浦町里触)
        笠木       3本継ぎ
        貫        3本継ぎ
        柱        1本物
        額        比賣神社
        建立       宝永3年(1706年)
 慣れない土地で、地図は持っていたけれど目印になるものもなく、探すのにかなり苦労しました。聞いた人は、道端に鳥居があるのですぐ分かるとのことでしたが、道端にあるのは、朱塗りのお稲荷さんの鳥居ですから、ここではないと思い込み、その辺りを何度も往復して探してもないので、仕方なく車を止めて、赤い鳥居のそばの道を下って行ったらありました!ありました。何のことはない、同じ境内に2つの神社があったのです。
 富士山の宝永の噴火が1707年(宝永4年)ですから、その1年前に建てられた立派な鎮信鳥居です。柱の高さがやや低いようには感じましたが、この時代に1本の石材で柱を建てたというのはあまり見受けません。これを造った石工さんはいい材料があったと喜んでいたのではないでしょうか。その分細工には骨が折れたのではないでしょうか
 この鳥居の周りの石、鳥居・石燈篭・階段・石垣が同じ材質らしい石材がふんだんに使われ、300年以上経ているのに整然と組まれているのには驚かされました。当時、近くに石切り場があり、腕の良い石工さんがいたからでしょう。
 
 
  
        

2013年1月21日月曜日

7.2.1弥佐支刀神社

7.2.11弥佐支刀神社(みさきと:壱岐市郷ノ浦町大原触)
        笠木       3本継ぎ
        貫        3本継ぎ
        柱        1本
        額        弥佐支刀神社
        建立       延宝6年(1678年)
 古色蒼然とした鳥居です。神社の説明文を読めば平戸松浦藩となるずっと以前からこの神社はありました。
 江戸時代末期に編集された壱岐名勝図誌・志原村には当時の弥佐支刀神社のたたずまいが描かれています。回りは農地だけしかなかったようです。
 
 鳥居と神殿の間に架かる橋はアーチの石で造られています。古めかしい石燈篭も見えます。
 昔ここは、石田郡志原村といっていました。天明8年(1788年)藩主が清(静山)公の記録では石田郡には14ケ村ありました。その村の名前を付けた志原(しわら)小学校が神社のすぐ横にあります。
  現在では小学校や保育園もそばに建てられ、民家もかなり建て込んでいます。
 
 
 
 


 

2013年1月14日月曜日

7.1.2志自岐宮

7.1.2志自岐宮(しじきぐう:壱岐市石田町南触)
           笠木       3本継ぎ
        貫        1本
        柱        2本継ぎ
        額        志自岐宮
        建立       元禄8年(1695年)
 この鳥居の前は狭い道路を隔てて、海岸の崖になっているので陸上からは正面の写真を撮る事はできません。海岸のすぐそばなので、強風にさらされて、痛みもひどいようです。貫も見た目には他の石材と同じように古びていますが、元禄時代に細くて長い材料を使ったものはありませんから、かなり昔に修復したものと思われます。柱には文字らしいものはありますが、全く判読できません。
 この神社の入り口には、風格がある立派な石燈篭が1組あります。海岸すぐというのに痛んでいないのは、かなり新しいものかもしれません。
 
 石田町で最も有名な人は、松永安左ヱ門と思いますが、若い人にはなじみがないかもしれません。明治から昭和にかけて「電力王」とか「電力の鬼」と言われた人です。その生家は松永記念館として一般に有料で公開されています。
 氏は福岡市電(後の西鉄電車)の創設者の一人で、その電車が廃止された時、壱岐に持ってきて記念館の中に展示されています。




 

 
 
 

2013年1月7日月曜日

7.1.1天満宮

壱岐の鎮信鳥居について
  この島の鳥居については野本政宏氏の「壱岐国・江戸期の石造鳥居」という冊子、平成11年、郷ノ浦町立壱岐郷土館発行のものを参考にさせてもらいました。この中で野本氏は鎮信鳥居33基、明神鳥居16基、合計49基をあげられています。私が見た範囲では、明治以降のものも含めて鎮信鳥居だけを紹介していきます。
  壱岐の神社の歴史は古く、平安時代中期、延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳(延喜式内社単に式内社ともいう)には24社が記載されています。対馬は27社。肥前の国では4社のみです。長崎県内では平戸の志々岐神社1社のみで、佐賀県内に3社あります。ということは、壱岐・対馬を除く長崎県内では、収穫を祝いお祭りをするなどという余裕がその当時はなかったのでしょう。平安時代の長崎や佐世保などは住民は生活していたでしょうが、細々と暮らしていたのではないでしょうか。
  戦国時代の末期に壱岐は平戸松浦家の領地となっています。江戸時代の平戸藩は6万3千7百石となっていますが、その内壱岐島内の分は1万7千7百石余ですから、大きな米づるということになります。農業先進地でもあったようで、江戸時代に松浦郡内の新田が開発されたときなど、壱岐の農民がかなり移住してきている記録もありますし、自分の先祖は壱岐から来たとの話も聞きます。
  そんな事を考えると、秋祭りに際しては、木製の鳥居が古くなって、建て替えるときには殿さまが石の立派なものを寄進したのではないでしょうか。鎮信公が寄進したものが古く数も最も多く、その後の藩主も続いています。一般的に言えるのは、江戸初期のものは鎮信鳥居が多く、江戸後期以降は明神鳥居が多くなっています。やはり流行というものでしょうか。

7.1.1天満宮(壱岐市石田町石田西触)
            笠木     3本継ぎ(右だけ古い)
        貫       1本(新しく造りかえられている)
        柱         2本継ぎ
        額       天満宮
        建立     寛永元年(1624年)
 この鳥居の寄進者は鎮信公の父親、隆信・宗陽公ですから現存する鎮信型の鳥居では最も古いのではないでしょうか。建立の年は鎮信鳥居の建立された年で、神社の創建はずっと前になりますが以後のものもそうなります。壱岐としては高台にある神社なので、風当たりもひどく、何度も倒されて改修されたのではないでしょうか。
 この神社には他の神社で、狛犬が置かれているところに牛の石像が置かれています。昔から農業に牛は欠かせない存在だったのでしょう。