2012年10月29日月曜日

3・2大岳神社

3.松浦市(2)大岳神社(松浦市御厨町山根免)

        額     大岳神社
        笠木    3本継ぎ
        貫     3本継ぎ
        柱     2本継ぎ
刻字 右柱 肥前國下松浦郡大檀那松浦肥前守源鎮信公武運長久之所
    左柱 寛文十庚戌孟夏吉裕日・・・
 この神社は、松浦の星鹿から江迎に向かう山道の頂上付近、大岳山登り口近くにあります。以前は路線バスも通っていましたが、今では松浦市のコミュニティーバスが細々と通っています。周りには民家も少なくさびしいところですが、江戸時代は幹線道路の一つだったという人もおられます。地元の人の話では、大岳山の頂上には、祠と説明文もあるそうですが、草に覆われている道を登るのは断念しました。
  柱の文字を読む限り、前回の熊野神社の鳥居と全く同じ頃、鎮信公の寄進で建てられた事が分かります。しかし、形と大きさは全く同じに見えますが、同じ石工が2基まとめて作ったものではないようにも感じました。

                  
 道路そばには、写真の明神鳥居の立派なものがたっています。白い花崗岩で出来ていて、大きさもめったにお目にかかれないような高くて大きなものです。紀元2600年を記念して、昭和15年に建てたと記されています。
  
 
 鳥居のそばには、亀岡神社社司、中山長杉撰と書かれた碑文は漢文体の長いものです。これだけの大工事をするには相当の費用がかかったものと思われますが、今のさびれようとはかけ離れています。都会に出て一旗あげた人か、炭坑なり金か、いずれにしても、村の氏子が金を出し合って建立したとは思われません。 
 
 
 
 

2012年10月22日月曜日

3・1熊野神社

3.松浦市(1)熊野神社(松浦市星鹿町北久保免)
      額     大権現
      笠木    3本継ぎ
      貫     3本継ぎ
      柱     2本継ぎ
  この鳥居も文字がはっきり読めます。
右足は 大檀那松浦肥前守鎮信公武運長久所
左足は 寛文十年庚戌孟夏吉日・・・
  寛文十年は1670年ですから340年以上経過しています。この神社には神主さんは近くの羽黒神社(タシロランで有名な所)からお祭りの時は見えていますので、神社総代長の川口さんにお話を伺いました。現在の氏子は11人だけで総代長以外の人が2人組んで1年交代でお祭りを仕切っておられるそうですから、5年で一回りするとのことでした。鳥居の高さが低いので戦後になってからコンクリートでかさ上げをして、くぐり易くしたそうです。額が「大権現」のままですから、明治になってから熊野神社というようになっても書き直さずに江戸時代のままの姿をしています。
  この神社の旧本殿は小さいものですが、木造の元の姿をとどめており、松浦市指定の文化財になっています。
 総代長の川口さんの自宅でお話をうかがっていたら、お爺さんの写真を見せてもらいました。
  説明に  平戸藩士 川口弥三郎 廿歳
      明治四年大阪市南区にて 江戸参勤交代の帰途 
 とありました。明治4年は廃藩置県の年ですが、行くときは藩士として行っても、帰って来た時は藩がなくなっていたのかも知れませんね。それにしても、この時代に写真をとる余裕があったのですね。松浦資料博物館の学芸員さんの話では、この年の参勤交代は平戸ー大阪間は船を使ったとのことですから、大阪では時間的な余裕はあったと思いますが、最後の武士の姿がよく分かります。参勤交代の船は江戸湾に付けることは禁止されていたそうです。

 
  
 

2012年10月15日月曜日

2・3鎮守大明神

2.田平町(3)鎮守大明神(平戸市田平町荻田)

 
       額    鎮守大明神
     笠木   3本継ぎ
     貫    1本に見えますが柱の中で継いであるみたい
     柱    1本継ぎなし
 柱に建立年らしい文字が見えますが、判読できません。笠木のそり具合は立派な鎮信鳥居です。貫や柱に継ぎが見えないのは江戸時代後期か明治になってから建てられたのかもしれません。
 神社の呼び名を額束にある「鎮守大明神」としました。
 
 明治になって全国のお宮は「神社」で統一されたようですが、昔ながらの額を掲げて彫り直さなかったのは、この集落の資金繰りがうまくいかなかったのでしょうか。
 この神社は純農村地帯の荻田(おぎた)部落にありますが、その中でも東荻田にあります。他は、西荻田と南荻田にも神社はあります。小集落で神社を維持していくのは大変なのではないでしょうか。それにしても米作地帯は神社が多いですね。
 お祭りになれば総社神社の神主さんが兼務されておられるそうですが、同じ肥前鳥居ですねと言ったらえっと驚かれました。宮司さんでも鳥居の型には無頓着のようです。
 
 裏側から見た写真です。間もなく夕映えの時間帯のようです。この鳥居のすぐ前を国鉄松浦線が走っていました。今も名前を松浦鉄道と変えて走っています。高校の3年間毎日通っていながら私も全く気付きませんでした。関心もなかったけど。
 その後、天気が良く明るい時に行って写真を撮って帰り、パソコンで拡大して見たら柱の文字が読めました「寛延二年四月三日」 ですから1749年です。
 
  

 前の写真ではよく分かりませんでしたが、この写真では分かられると思います。2本の柱をステンレスのワイヤを巻きつけて絞ってあります。柱が外側に開かないためです。貫は柱の中で継がれているようで横から見たらまっすぐではありませんでした。



2012年10月8日月曜日

2・2宗像神社

2.田平町(2)宗像(むなかた)神社(平戸市田平町里免)
    額      「宗像神社」
    笠木・貫  3本継ぎ
    柱      2本継ぎ(亀腹あり)

 この鳥居の文字もよく読めます。しかし、普段は注連縄や竹竿に邪魔されて文字が隠されているので、秋のお祭りの前に行われる注連縄作りの当日写真を撮りに行きました。宮司さんの自宅も隣接しているので鳥居を立て直した時に継ぎ目に銅貨ががあった話も聞けました。右柱には
  「大檀那松浦壱岐守源任國家豊楽 田平村中氏子繁昌五穀成就祈所」  左には
  「于時元禄十三庚辰天十一月初丑日當社詞官友廣云々
と書いてあります。
  松浦壱岐守源任とは鎮信公の第1子、5代藩主棟(たかし)公の幼名だそうです(松浦史料博物館学芸員の話)。元禄13年は1700年、棟公は元禄4年に江戸幕府の寺社奉行を務めています。外様大名としては破格のものです。
  秋祭りに合わせて、鳥居の寄進があったのでしょう。現在も変わらずに11月1日におくんちは行われています。
  鳥居のすぐ左手に「縣社宗像神社」と言う自然石の記念碑があります。この自然石は琵琶の格好をしています。平戸街道のウォーキングで通る田平町の上亀地区にはこの琵琶の形をした石が多いためか琵琶石坂という地名もあります。明治になってから県社になったとき上亀地区から運んで来たそうです。

  やや裏手に「世界大戦記念碑」と言うのがあります。戦死者名はなく、凱旋記念碑と言うべきもので、大正年間のものですから、第1次世界大戦です。この神社には他に戦争にまつわる記念碑はありません。よそでは多くの記念碑の中のひとつとして第1次世界大戦の記念碑はありますが(非常に少ないけど)これだけしかないと言うのは珍しいものです。佐世保港には戦利品のドイツの潜水艦を曳航してきたという話は聞きますが、記念碑は見たことがありません。
  江戸時代この神社には、平戸から殿様が来ていたとのことで、今も神社の田んぼが2反あるそうです。昔はもっとたくさんあったと宮司さんは言っていましたが、第3代藩主隆信公のときに佐川主馬が神社や寺院の持分を十分の一に減らしてしまったことでしょう。この神社も少し前まで鳥居の前の直線道路で流鏑馬が行われていたそうです。

2012年10月1日月曜日

2・1総社(そうじゃ)神社

2.田平町(1)総社神社(平戸市田平町山内町)
  額   総社神社
  笠木  3本継ぎ
  貫   3本継ぎ
  柱   3本継ぎ (亀腹あり)

 すべての石材が3本組の完全な形で残り、鎮信公の名前もはっきり分かる代表的な「鎮信鳥居」です。しかし、最初に写真を撮りに行った日は注連縄や竹竿などで柱に文字が刻んであり、文字は読めるのにところどころ隠れた部分が有り全部を通読することができませんでした。秋のお祭りの数日前に注連縄作りと清掃作業をすることを聞いて出かけました。
  秋晴れの気持ちのいい日でした。着いた時は、上の写真のようにみんな取り外されおりすみずみまでよく読めました。右柱は
   大檀那松浦肥前守源鎮信國家豊楽祈所 田平村中五穀繁昌云々
左の柱には
   于時延寶三乙卯年九月十九日 當寺現住云々
さすがに柱の下部は苔などで読みづらくなっています。
  鳥居寄進者の鎮信公の名前も、日付もはっきり分かりました。延宝3年はきのと卯年、1675年(在位期間は1637-1689)です。しかも9月19日というのも、現在は新暦を採用になったとき改めたのでしょう、一月遅れの10月19日に秋祭り(おくんち)が毎年行われているとのことです。
 この日は氏子の皆さんが早朝から作業に精を出されていました。注連縄は4本も作ると言うのですから大変です。口石ではもっと人数も多く2本しか作らないので午前中で終わりますが、各神社ごとに注連縄の作り方はかなり違いますが、総社神社と口石金比羅さんとは非常によく似ています。竹竿に注連縄を固定してそれを鳥居に結びつけるのはまったく同じです。少し違うのはサガリ(房)が5つも下がっています、口石のは少し小さいからでしょうサガリは3つしかありません。夕刻までには完了しました。

 新しい注連縄と青ささが付いた新しい竹が鳥居を凛々しく見せています。この日は宮司さんも見えていて、いろいろお話を聞くこともできました。神社の古い書付も写真に撮りました。
 
 口石では、10日に近い日曜日と今では変更になっていますが、田平の総社神社は昔ながらの19日をしっかり守ってお祭りがされています。鳥居の外の通りは直線道路です、以前はここで流鏑馬が行われていたそうです。その際、秀吉の朝鮮の役から持ち帰った矢を使ったなどの話も残っています。宮司さんの話では、昭和48年に落馬事故があり、49・50年には形ばかりの流鏑馬をやったそうですが、舗装道路になって中止されたそうです。