2012年12月31日月曜日

6.3六社神社

6.小値賀島(3)六社神社
        額      大明神
        笠木     3本継ぎ
        貫      3本継ぎ
        柱      2本継ぎ 
 この神社は小値賀町の中心地、港からも近いところにあります。左の柱には「元禄三年」と建立年が読み取れます。1690年ですから鎮信公の次の平戸藩5代目棟公の時のものです。この神社には石の鳥居が3基ありますが、真ん中の二の鳥居がこの鎮信鳥居です。一の鳥居と三の鳥居は明神鳥居です。
  〆縄が取り付けられているのは一の鳥居だけです。普通は鳥居が三基あれば三本の〆縄を付けるのに、省略されたのは漁師と町家が中心の集落では人手が足りなかったのか、稲わらが不足していたのか、今後はこんなところが増えるのではないでしょうか。都会ではビニール製の〆縄も見られるようになりましたから。
 
 小値賀の港へは佐世保港からフェリーでおよそ2時間です。
 高速船も出ているのでもっと早く行くこともできます。小値賀には飛行場もあります。
 数年前には定期便が飛んでいました。現在の飛行場は閉鎖さているのではなく、休眠状態というところでしょうか。ヘリポートとして急病人の為に使うこともあるそうです。小型のチャーター便があれば使うことが出来るとの話でした。自転車で通りかかったので開いている正門から中へ入りましたが、滑走路へは入り込む事はさすがに出来ないみたいですが、事務所には人影が見えました。
 


 


2012年12月24日月曜日

6.2沖の神島神社

6.小値賀島(2)沖の神島神社
 小値賀島本島の地の神島(こうじま)神社と向かい側の野崎島にある沖の神島神社を合わせて「神島神社」というのが正式名称だそうですが、本島の神社を単に神島神社と一般に言われているそうです。
        額     神嶋宮
        笠木    3本継ぎ
        貫     1本
        柱     3本継ぎ
        建立    延宝8(1680年)
  地の神島神社の鳥居と沖の神島神社の鳥居は海を隔てて向かい合っている配置になっています。こちら側が南に面しているため台風の被害も大きかったようで、貫の部分は壊れてしまったのでしょう現在のものは鉄筋コンクリートになっています。それも中央部分のコンクリートがはげ落ちて錆びた鉄筋がむき出しになっています。
 この島に行くためには連絡船も出ていますが、便数も少なく鳥居の所へ行くのはガイドなしでは行けそうもありません。港から漁船をチャーターして船の上から写真を撮りました。鳥居のすぐそばに波止場を作った時の記念碑がありますが、荒れていて今では船を付ける状態ではありません。鳥居に〆縄もなく最近では本島でまとめてお祭りがされているのではないでしょうか。
 鳥居は海岸にありますが、神社はこの上の山の中にあります。

  大きな石(王位石とよばれています)の下に屋根だけが見えているところが神社(跡?)です。
 
 
 この島には数百人の人が住んでいた時もあったそうですが、10年ほど前に無人島になりました。しかし、小値賀町では観光に力を入れ、野崎島自然学塾村を閉校になった小学校を利用して宿泊施設として使っています。


 
夏場には自然体験を求めて大勢の人が来ているそうです。この島には隠れキリシタンの流れをくむ教会も立派に残っています。
 レンガ造りの旧野首教会です。世界遺産登録を目指す長崎の教会群のひとつです。




2012年12月17日月曜日

6.1(地の)神島(こうじま)神社

6.小値賀(おじか)島(1)地の神島神社
 小値賀島は五島列島に位置していながら、宇久島と共に北松浦郡にありました。他の五島列島は南松浦郡でした。平成の合併により、宇久町は佐世保市に合併されました。江戸時代までは、小値賀は平戸藩に、宇久は五島藩に属していました。隣の島でありながら、昔から仲が悪かったと言われています。今回の合併の時も、宇久が佐世保に行くなら小値賀は行かないとの話がもっともらしく言われています。しかし、両方の漁業協同組合は合併していますから、今はそれほど仲が悪いのではないのかもしれません。
        額     神嶋大明神
        笠木    3本継ぎ
        貫     3本継ぎ
        柱     3本継ぎ
  小値賀島本島の最も古い神社の一番古い鳥居がこの鳥居です。神社の祠は上段にあるけれどこの鳥居は急な崖の海岸に近いところにあります。
  小値賀町教育委員会の資料では寛文6年(1666年)、平戸藩主は鎮信公の時に建てらたそうですが柱の文字は判読できません。それにしても台風の直撃はこの間に数え切らないほどあった事でしょうが、途中で補修はあったでしょうが、完全な形で残っているのが不思議な感じがします。
 
  階段の上から見たら波打ち際にあるようにも見えますが、波しぶきはかかっても海水に浸かるところではありません。写真上方の島は小値賀町の野崎島で、数年前まではかなりの人が住んでいましたが、現在は無人島です。野生のシカがかなり増えているそうです。
  

  

2012年12月10日月曜日

5.2本山神社

5.的山大島(2)本山神社
                   額        本山神社
        笠木       3本継ぎ
        貫        3本継ぎ
        柱        2本継ぎ
  合併する前の大島村の文化財にこの鳥居は指定されています。前回の天降神社の説明板よりは正確に記されています。寛永13年(1636)第3代平戸藩主隆信(宗陽公)と長男の鎮信公の親子2人でこの鳥居を奉納しています。隆信公はこの時46歳で翌年亡くなり、鎮信公が4代目藩主を継いでいます。鎮信公は当時15歳ですから元服して間もないころで、お披露目の意味合いもあり、父親があちこち連れ歩いていたのではないでしょうか。
 この鳥居と天降神社の鳥居は形も石材も全く同じに見えます。ということは、天降神社の説明板の年代では合いません。この年親子の殿様が同時に寄進したとすればぴったり合いそうです。
 この神社には現在神主は不在でお祭りの時は天降神社の宮司さんがされているそうです。以前はもちろんおられて大島村の村長さんをされていた時もあったそうです。高校の同期生、南一美君(故人)の実家だったと聞き改めて鳥居を見直しました。
 
 大島へ渡るにはこのフェリーに乗ります。200トンばかりですが、乗客は僅かばかりで車も普段は少しだけです。車検証を見せなくてフェリーの切符が買える珍しいところです。

 


 

2012年12月3日月曜日

5.1天降(てんこう)神社

5.的山(あずち)大島(1)天降神社(平戸市大島村神浦)
                   額      天降神社
        笠木     3本継ぎ
        貫      3本継ぎ
        柱      2本継ぎ


  平戸島のすぐ北にある大島にフェリーで渡ったのは東京から久しぶりに遊びに来た高校時代の仲間と大島の仲間の所へ行ってみようということでした。大島には風力発電所も出来ているのでその写真を撮り、あわよくば昔の平戸藩内だから鎮信鳥居もあるのではなかろうかと期待もしていました。昼ごろ着いて島に一軒だけある食堂で鯛茶漬けを食った後、古そうな神社の前を通りかかったとき、長い階段の上に鳥居があるので途中まで登ったらありました。まさしく鎮信鳥居です。立派な説明板もあります。説明板の年代1717年は鳥居建立とは少し違うようです。鯨漁は生月が有名ですが、それよりも早く大島で始められていて、説明板にある鯨組の井元弥七左衛門が石燈篭を奉納したのがこの年でしょう。それよりももっと早く鳥居は建てられたと思います。

 
   神社の登り口に「勘定場の井戸」というのがあります。その当時の漁のためのものでしょう。
  夕方になり大島の友人、関東屋という旅館を経営していますが、その宿にお世話になった時、大きなイセエビの生き作りには驚きました。実にいい味でした。翌朝の味噌汁にもこの伊勢海老がドンと入っていました。喰い終わった頃、前日鳥居の話をしていたからでしょうが、元教育委員会に勤めていたという郷土史家が玄関に尋ねてこられました。話を聞くと、大島にはもう一つ鎮信鳥居があるとのことです。来週その鳥居に付いて書きます。






2012年11月26日月曜日

4・3三柱(みはしら)神社

4.北松浦郡(3)三柱神社(佐々町里免)
        額       三柱神社
        笠木     3本継ぎ
        貫      3本継ぎ
        柱      3本継ぎ
   この神社は佐々町の中心地、里町内にあります。創建は古く平安時代の貞元二年(977年)に古川岳連山の三尊岳の頂上に神殿を設けたと言われています。その後、佐々川のほとりの古川に移り、さらに佐々駅の近く(宮地と言われているところで、鉄道官舎があった場所)を経て現在地へ文化二年(1805)遷座されたそうです。
 この鳥居は三柱神社の二の鳥居と呼ばれ、国道から少し入った所にあります。昔の平戸街道に面した所にあります。建立は貞享五年(1688年・元禄元年)宮地で、文化二年に現在地へ移されたそうです。建立の時、平戸藩主は4代目の鎮信公の年代ですが、鳥居の柱には鎮信公の名前は刻まれていませんので、氏子によるものと思われます。全ての石材が3本継ぎで作られ、笠木の反り具合も美しく均整がとれ旧平戸領内の鎮信鳥居の中でも最も美しいものの一つと思われます。

  三柱神社の本殿天井には81枚の絵馬があります。説明では旧平戸藩士山本紋蔵・紋之助兄弟と酒屋の内山巨州の3人が心血を傾けて描き、明治10年に完成したとのことです。今ではやや色あせた感はしますが、立派に残っています。この本殿は昭和41年に新築されたので天井の中央部分だけですが、旧本殿では天井全面を覆っていたそうです。
  佐々町では、旧軍の「肉弾三勇士」が戦時中は教科書にも掲載され有名になっていた三勇士の一人「北川亟(すすむ)伍長」は佐々町の人です。その銅像も境内にあります。
  この神社の創建が977年ですから、1977年には1000年になるので、その記念碑はないかと探しましたが見つかりません。宮司さんに聞いたら何もないそうです。もっとも、950年を記念して建てられた鳥居は本殿のすぐそばにあります。



2012年11月19日月曜日

4・2若宮神社

4.北松浦郡(2)若宮神社(江迎町田の元)
         額      若宮神社     
        笠木    1本
        貫      1本
        柱      1本
   写真を見て頭でっかち(笠木が大きい)の感は否めません。そして、笠木、貫、柱ともに1本の石材で出来ています。最初に見た時、肥前鳥居とは思ったけど何か違和感がありました。柱には大正3年建立と彫られています。これでは鎮信鳥居と呼べないのではなかろうかと思ったりしましたが、すぐ横に古い鳥居の残骸が置かれています。
そして、元禄年間の表示があります。確かに古いものは鎮信鳥居の姿かたちに同じものです。大正になって作られた時、頭でっかちになったのでしょう。昔のものを参考にして復元しようとしたのですからこれも鎮信鳥居の範ちゅうに入れる事にします。
  この土地は、江戸時代には志佐筋の福井村でした。戦国時代には志佐氏の領分で、福井の直谷城主が取り仕切っていた所でした。明治になって田平筋の吉田村と合併して吉井村となりその後町となり、現在は佐世保市に併合されています。
  戦後はここに住友潜竜炭坑が開設され大勢の人が全国から集まり大変な賑いを見せていました。小学校6年の時、すぐ近くに住んでいたので、はっきりと脳裡に残っています。朝市の賑い、真昼間からビンゴ屋の喧騒、映画館はいつも満員の盛況でした。そんなときに、この若宮神社の秋のお祭り(おくんちだったのでしょう)の素人演芸会を見たのを思い出します。境内に作られた舞台の上で歌あり芝居ありの熱演が続き、とても素人のものとは思えず、大勢の観客もやんやの喝さいを送っていました。
  それも、炭坑の閉鎖と共に火が消えたようにさびしくなり、全国に散らばって行きました。高校時代にはここから来ていたものが20~30人ぐらいはいたはずですが、現在ではだれ一人残っていません。



  

2012年11月12日月曜日

4・1藤護(とうご)神社

4.北松浦郡(1)藤護神社(鹿町町深江)
                     額     嶋護大明神
        笠木    3本継ぎ
        貫     1本
        柱     2本継ぎ
  鳥居の足元に写真のような説明文が掲げられています。「鎮信鳥居」と明示されているところは他では見ることはありませんでした。鹿町町の教育委員会が作ったこの説明文では、1528年に鎮信公が創設したように書かれていますが、100年以上も違っています。
  この説明文では、文政4年(1821)に松の大木が暴風雨のため引っかかり、破損したのを修復して現在に至るとありますが、最初の写真で分かるように貫の部分が1本の石材で出来ています。この鳥居を修復したという石工さんの話を聞きましたが、この説明文の掲げられた後になってからの事かも知れません。文政年間の鳥居で貫を1本の石材で作られたものはないようです。
  鳥居を背後から撮った写真です。笠木の反り具合が美しく見えます。この神社は、城主が滅んだ深江城跡に建てられたと言われています。
 
  






2012年11月5日月曜日

3・3今福神社

3.松浦市(3)今福神社(松浦市今福町東免)
 
        額     今福神社
        笠木    3本継ぎ
        貫     3本継ぎ
        柱     3本継ぎ
 鳥居建立は寛文十年(1670年)ということは、前回、前々回の大岳、熊野神社と全く同じ年に建てられています。松浦市内にはこの3基しか鎮信鳥居はありませんが、偶然の一致ということでしょうか。前の2基は鎮信公が寄進したものですが、今福はこの辺りを支配していた、宗家松浦の20代目に当たる、信貞公が寄進しています。柱に「松浦猪右衛門 源信貞武運長久」と刻まれてあるのがはっきり読めます。諱(いみな)は猪右衛門です。この人と鎮信公とは従弟になります。鎮信公の父親、隆信(宗陽)公の妹の子で相浦・松浦家の養子となっています。記録によると、今福村を1500石分知していますが、江戸は武州葛飾郡に住み幕府の旗本となっていて、一族は明治まで江戸在住をしています。
  この鳥居を見ると、平戸藩の鎮信鳥居の中では佐賀藩のものに似ているように思われます。特に笠木の反りが少なく平べったい感じを受けます。全体に大きさもかなり大きく感じます。柱は他の鎮信鳥居と比べたら、かなり太くなっています。石工が違う地方のものが作ったのではないでしょうか。
 
 今福は松浦家の発祥の地と言われているので、近くには最初の城、梶谷城もあり堤防建設に当たっては人柱の話も語り継がれています。 

2012年10月29日月曜日

3・2大岳神社

3.松浦市(2)大岳神社(松浦市御厨町山根免)

        額     大岳神社
        笠木    3本継ぎ
        貫     3本継ぎ
        柱     2本継ぎ
刻字 右柱 肥前國下松浦郡大檀那松浦肥前守源鎮信公武運長久之所
    左柱 寛文十庚戌孟夏吉裕日・・・
 この神社は、松浦の星鹿から江迎に向かう山道の頂上付近、大岳山登り口近くにあります。以前は路線バスも通っていましたが、今では松浦市のコミュニティーバスが細々と通っています。周りには民家も少なくさびしいところですが、江戸時代は幹線道路の一つだったという人もおられます。地元の人の話では、大岳山の頂上には、祠と説明文もあるそうですが、草に覆われている道を登るのは断念しました。
  柱の文字を読む限り、前回の熊野神社の鳥居と全く同じ頃、鎮信公の寄進で建てられた事が分かります。しかし、形と大きさは全く同じに見えますが、同じ石工が2基まとめて作ったものではないようにも感じました。

                  
 道路そばには、写真の明神鳥居の立派なものがたっています。白い花崗岩で出来ていて、大きさもめったにお目にかかれないような高くて大きなものです。紀元2600年を記念して、昭和15年に建てたと記されています。
  
 
 鳥居のそばには、亀岡神社社司、中山長杉撰と書かれた碑文は漢文体の長いものです。これだけの大工事をするには相当の費用がかかったものと思われますが、今のさびれようとはかけ離れています。都会に出て一旗あげた人か、炭坑なり金か、いずれにしても、村の氏子が金を出し合って建立したとは思われません。 
 
 
 
 

2012年10月22日月曜日

3・1熊野神社

3.松浦市(1)熊野神社(松浦市星鹿町北久保免)
      額     大権現
      笠木    3本継ぎ
      貫     3本継ぎ
      柱     2本継ぎ
  この鳥居も文字がはっきり読めます。
右足は 大檀那松浦肥前守鎮信公武運長久所
左足は 寛文十年庚戌孟夏吉日・・・
  寛文十年は1670年ですから340年以上経過しています。この神社には神主さんは近くの羽黒神社(タシロランで有名な所)からお祭りの時は見えていますので、神社総代長の川口さんにお話を伺いました。現在の氏子は11人だけで総代長以外の人が2人組んで1年交代でお祭りを仕切っておられるそうですから、5年で一回りするとのことでした。鳥居の高さが低いので戦後になってからコンクリートでかさ上げをして、くぐり易くしたそうです。額が「大権現」のままですから、明治になってから熊野神社というようになっても書き直さずに江戸時代のままの姿をしています。
  この神社の旧本殿は小さいものですが、木造の元の姿をとどめており、松浦市指定の文化財になっています。
 総代長の川口さんの自宅でお話をうかがっていたら、お爺さんの写真を見せてもらいました。
  説明に  平戸藩士 川口弥三郎 廿歳
      明治四年大阪市南区にて 江戸参勤交代の帰途 
 とありました。明治4年は廃藩置県の年ですが、行くときは藩士として行っても、帰って来た時は藩がなくなっていたのかも知れませんね。それにしても、この時代に写真をとる余裕があったのですね。松浦資料博物館の学芸員さんの話では、この年の参勤交代は平戸ー大阪間は船を使ったとのことですから、大阪では時間的な余裕はあったと思いますが、最後の武士の姿がよく分かります。参勤交代の船は江戸湾に付けることは禁止されていたそうです。

 
  
 

2012年10月15日月曜日

2・3鎮守大明神

2.田平町(3)鎮守大明神(平戸市田平町荻田)

 
       額    鎮守大明神
     笠木   3本継ぎ
     貫    1本に見えますが柱の中で継いであるみたい
     柱    1本継ぎなし
 柱に建立年らしい文字が見えますが、判読できません。笠木のそり具合は立派な鎮信鳥居です。貫や柱に継ぎが見えないのは江戸時代後期か明治になってから建てられたのかもしれません。
 神社の呼び名を額束にある「鎮守大明神」としました。
 
 明治になって全国のお宮は「神社」で統一されたようですが、昔ながらの額を掲げて彫り直さなかったのは、この集落の資金繰りがうまくいかなかったのでしょうか。
 この神社は純農村地帯の荻田(おぎた)部落にありますが、その中でも東荻田にあります。他は、西荻田と南荻田にも神社はあります。小集落で神社を維持していくのは大変なのではないでしょうか。それにしても米作地帯は神社が多いですね。
 お祭りになれば総社神社の神主さんが兼務されておられるそうですが、同じ肥前鳥居ですねと言ったらえっと驚かれました。宮司さんでも鳥居の型には無頓着のようです。
 
 裏側から見た写真です。間もなく夕映えの時間帯のようです。この鳥居のすぐ前を国鉄松浦線が走っていました。今も名前を松浦鉄道と変えて走っています。高校の3年間毎日通っていながら私も全く気付きませんでした。関心もなかったけど。
 その後、天気が良く明るい時に行って写真を撮って帰り、パソコンで拡大して見たら柱の文字が読めました「寛延二年四月三日」 ですから1749年です。
 
  

 前の写真ではよく分かりませんでしたが、この写真では分かられると思います。2本の柱をステンレスのワイヤを巻きつけて絞ってあります。柱が外側に開かないためです。貫は柱の中で継がれているようで横から見たらまっすぐではありませんでした。



2012年10月8日月曜日

2・2宗像神社

2.田平町(2)宗像(むなかた)神社(平戸市田平町里免)
    額      「宗像神社」
    笠木・貫  3本継ぎ
    柱      2本継ぎ(亀腹あり)

 この鳥居の文字もよく読めます。しかし、普段は注連縄や竹竿に邪魔されて文字が隠されているので、秋のお祭りの前に行われる注連縄作りの当日写真を撮りに行きました。宮司さんの自宅も隣接しているので鳥居を立て直した時に継ぎ目に銅貨ががあった話も聞けました。右柱には
  「大檀那松浦壱岐守源任國家豊楽 田平村中氏子繁昌五穀成就祈所」  左には
  「于時元禄十三庚辰天十一月初丑日當社詞官友廣云々
と書いてあります。
  松浦壱岐守源任とは鎮信公の第1子、5代藩主棟(たかし)公の幼名だそうです(松浦史料博物館学芸員の話)。元禄13年は1700年、棟公は元禄4年に江戸幕府の寺社奉行を務めています。外様大名としては破格のものです。
  秋祭りに合わせて、鳥居の寄進があったのでしょう。現在も変わらずに11月1日におくんちは行われています。
  鳥居のすぐ左手に「縣社宗像神社」と言う自然石の記念碑があります。この自然石は琵琶の格好をしています。平戸街道のウォーキングで通る田平町の上亀地区にはこの琵琶の形をした石が多いためか琵琶石坂という地名もあります。明治になってから県社になったとき上亀地区から運んで来たそうです。

  やや裏手に「世界大戦記念碑」と言うのがあります。戦死者名はなく、凱旋記念碑と言うべきもので、大正年間のものですから、第1次世界大戦です。この神社には他に戦争にまつわる記念碑はありません。よそでは多くの記念碑の中のひとつとして第1次世界大戦の記念碑はありますが(非常に少ないけど)これだけしかないと言うのは珍しいものです。佐世保港には戦利品のドイツの潜水艦を曳航してきたという話は聞きますが、記念碑は見たことがありません。
  江戸時代この神社には、平戸から殿様が来ていたとのことで、今も神社の田んぼが2反あるそうです。昔はもっとたくさんあったと宮司さんは言っていましたが、第3代藩主隆信公のときに佐川主馬が神社や寺院の持分を十分の一に減らしてしまったことでしょう。この神社も少し前まで鳥居の前の直線道路で流鏑馬が行われていたそうです。

2012年10月1日月曜日

2・1総社(そうじゃ)神社

2.田平町(1)総社神社(平戸市田平町山内町)
  額   総社神社
  笠木  3本継ぎ
  貫   3本継ぎ
  柱   3本継ぎ (亀腹あり)

 すべての石材が3本組の完全な形で残り、鎮信公の名前もはっきり分かる代表的な「鎮信鳥居」です。しかし、最初に写真を撮りに行った日は注連縄や竹竿などで柱に文字が刻んであり、文字は読めるのにところどころ隠れた部分が有り全部を通読することができませんでした。秋のお祭りの数日前に注連縄作りと清掃作業をすることを聞いて出かけました。
  秋晴れの気持ちのいい日でした。着いた時は、上の写真のようにみんな取り外されおりすみずみまでよく読めました。右柱は
   大檀那松浦肥前守源鎮信國家豊楽祈所 田平村中五穀繁昌云々
左の柱には
   于時延寶三乙卯年九月十九日 當寺現住云々
さすがに柱の下部は苔などで読みづらくなっています。
  鳥居寄進者の鎮信公の名前も、日付もはっきり分かりました。延宝3年はきのと卯年、1675年(在位期間は1637-1689)です。しかも9月19日というのも、現在は新暦を採用になったとき改めたのでしょう、一月遅れの10月19日に秋祭り(おくんち)が毎年行われているとのことです。
 この日は氏子の皆さんが早朝から作業に精を出されていました。注連縄は4本も作ると言うのですから大変です。口石ではもっと人数も多く2本しか作らないので午前中で終わりますが、各神社ごとに注連縄の作り方はかなり違いますが、総社神社と口石金比羅さんとは非常によく似ています。竹竿に注連縄を固定してそれを鳥居に結びつけるのはまったく同じです。少し違うのはサガリ(房)が5つも下がっています、口石のは少し小さいからでしょうサガリは3つしかありません。夕刻までには完了しました。

 新しい注連縄と青ささが付いた新しい竹が鳥居を凛々しく見せています。この日は宮司さんも見えていて、いろいろお話を聞くこともできました。神社の古い書付も写真に撮りました。
 
 口石では、10日に近い日曜日と今では変更になっていますが、田平の総社神社は昔ながらの19日をしっかり守ってお祭りがされています。鳥居の外の通りは直線道路です、以前はここで流鏑馬が行われていたそうです。その際、秀吉の朝鮮の役から持ち帰った矢を使ったなどの話も残っています。宮司さんの話では、昭和48年に落馬事故があり、49・50年には形ばかりの流鏑馬をやったそうですが、舗装道路になって中止されたそうです。